奇跡の三日間
奇跡
みなさんようこそ
「緊急事態宣言」が全国に発出されましたが、いかがお過ごしでしょうか?
私はここ二年間は基本、日中も家にいますのであまり大きな変化というのはないのですが、友人・知人とランチや食事に行けなかったり、実家の母の所にも行くのを止めております。
外に出るのは買い物と散歩と庭掃除くらいで、雨の日は運動不足にならないように家の階段の上り下りをしたり廊下を往復したりしています。
気休めにしかならないのかもしれませんが、何もしないよりは良いかと(笑)
さて、昨日の記事で父の他界の際の主治医について書いたのですが、読み返していて想い出した出来事がありましたので書いておこうと思います。
それは父が危篤状態になった日から葬儀が終る三日間の出来事です。
私は父が吐血し救急搬送されて主治医と担当医と話、病室で父の様子を見た時に「あ~今回はダメだな。長くはないから覚悟を決めないといかん。」と心の中でつぶやきました。
そして、その旨を母と妹、私の妻に告げその時に備えたのです。
なんて縁起の悪いとおっしゃる方もいるとは思いますが、次の日からは葬儀の手配も始めました。
そうして搬送から4日目に朦朧とする父が現世で最後に遺した絞りだすような言葉は「喉が渇いた。スイカが食べたい。」でした。
その後はモルヒネの作用と容態の悪化で微かにうなる程度でした。
そして酸素飽和度が下がりだし、意識の混濁も顕著になった6日目の日中に担当医から「今夜が山です」と告げられたのです。
すぐに母や妹、親戚に連絡し、会える状態にある人には来てもらい最期のお別れをしてもらうようにしました。
そして陽が落ちて夜を迎える頃に集まった人たちに葬儀に関する準備(喪服・睡眠等)をしてもらうために帰宅するように促したのです。
私と私の妻が病院に残り父に付き添うからと。
そして皆は一斉に病院をあとにしました。
私と妻は集中治療室の前の待合の椅子で夜を迎えました。
22時、23時と夜も深くなるにつれ病院は静まり返り、夏であるのに冷房がやけに効いていて寒くて仮眠もできません。
というより、いつ呼ばれるかという緊張の方が強く眠気もなかったのが正直なところです。
そしてその時はきました。朝の4時頃です。
集中治療室にあわただしく速足で入る医師を見て、私は「あ、その時がついにきたか」と感じたのです。
すると間もなく看護師に中に入るように言われ、私と妻は簡素な防護服とマスクをして中に入りました。
そして医師から「厳しい状態です。声をかけてあげて下さい。」と言われたので、待合の椅子に座り最期の言葉は何にしようかとずっと考えていたのですが、妻が泣きながら「お父さん、お父さん」と声を掛けている姿を見て何も言えなくなってしまいました。
そうこうしていたらテレビの医療ドラマで観るのと同じで、モニターがツーっとフラットになったので逝ったのだと分かりました。
我々は延命処置は拒否していましたので医師は特段何もせず淡々と死亡宣告をされました。
妻は父の亡骸にしがみつき泣いていましたが、私は不思議と涙も出ませんでした。
そうして部屋を出て、母に連絡をしようと携帯電話片手に外に出ると白々と夜は明けていました。
その後、私は感傷に浸る暇もなく、葬儀屋さんに連絡したり、死亡診断書をいただいたり駆け付けた母や妹や妻の両親などとやり取りをしていました。
で、葬儀屋とは事前に打ち合わせを済ませておいたのもあるのですが、日ならびの関係でお通夜が死亡診断をされた当日になってしまったのです。
私は前日から一睡もしていなかったのですが、納棺の儀式もそこそこに悲しむ間もなく、各関係者に連絡したり、葬儀屋と打ち合わせをしたりしていました。
今、主流の家族葬という選択肢もあったのですが、父は生前ヤクザな生き方をしてきたせいなのか顔が大変に広く、交友関係や親せきも多いので一般葬にするしかなかったというのが事実です。
そうして通夜を終え怒涛の一日が終わったのです。
次の日は葬儀があるのでのんびりもしていられないのですが、私は布団に入るなり意識を失うように寝たのを覚えています。
そして葬儀を終え、父のお骨を後飾り段に置いた時に初めて一息つけたのです。
ここまで長々と書いてしまいましたが、ここまでが冒頭に書いた父が危篤となった日からの三日間の主な様子なのですが、ここで奇跡が起きていたのです。
それは、この三日間、私の体調は何の問題もなく過ごせたということです。
と言うのも、この頃の私は「心の病(身体表現性障害)」の症状の真っただ中にあったのです。
しかし一番厄介だった強いめまい(浮遊感)もピタリと止まり、動悸や背中の激痛なども何の症状にも襲われることなく三日間を過ごしていたのです。
まさに奇跡としか言いようがありません。
と言うか、症状なく過ごさせて下さったことに感謝しかありませんでした。
今思うと、人間は究極に追い込まれると火事場の馬鹿力で考えられない事が出来たり、不可能を可能にするのだと理解しているのです。
もしかしたらですが、ここに私が様々な症状と付き合うヒントがあるのだろうし、私の修行の在り方が見えるのかもしれませんね。
今は世の中の多くが、新型コロナウイルス「COVID-19」の事で占められていますが、人として失ってはいけない基本の部分はなくさないように日々を丁寧に過ごしていきたいと思っています。
本日も生かしていただけた事に感謝し一日を終えたいと思います。
皆さんにより善き明日がくることを願い、ご訪問に感謝し記事を終えます。
ありがとうございました。



「緊急事態宣言」が全国に発出されましたが、いかがお過ごしでしょうか?
私はここ二年間は基本、日中も家にいますのであまり大きな変化というのはないのですが、友人・知人とランチや食事に行けなかったり、実家の母の所にも行くのを止めております。
外に出るのは買い物と散歩と庭掃除くらいで、雨の日は運動不足にならないように家の階段の上り下りをしたり廊下を往復したりしています。
気休めにしかならないのかもしれませんが、何もしないよりは良いかと(笑)
さて、昨日の記事で父の他界の際の主治医について書いたのですが、読み返していて想い出した出来事がありましたので書いておこうと思います。
それは父が危篤状態になった日から葬儀が終る三日間の出来事です。
私は父が吐血し救急搬送されて主治医と担当医と話、病室で父の様子を見た時に「あ~今回はダメだな。長くはないから覚悟を決めないといかん。」と心の中でつぶやきました。
そして、その旨を母と妹、私の妻に告げその時に備えたのです。
なんて縁起の悪いとおっしゃる方もいるとは思いますが、次の日からは葬儀の手配も始めました。
そうして搬送から4日目に朦朧とする父が現世で最後に遺した絞りだすような言葉は「喉が渇いた。スイカが食べたい。」でした。
その後はモルヒネの作用と容態の悪化で微かにうなる程度でした。
そして酸素飽和度が下がりだし、意識の混濁も顕著になった6日目の日中に担当医から「今夜が山です」と告げられたのです。
すぐに母や妹、親戚に連絡し、会える状態にある人には来てもらい最期のお別れをしてもらうようにしました。
そして陽が落ちて夜を迎える頃に集まった人たちに葬儀に関する準備(喪服・睡眠等)をしてもらうために帰宅するように促したのです。
私と私の妻が病院に残り父に付き添うからと。
そして皆は一斉に病院をあとにしました。
私と妻は集中治療室の前の待合の椅子で夜を迎えました。
22時、23時と夜も深くなるにつれ病院は静まり返り、夏であるのに冷房がやけに効いていて寒くて仮眠もできません。
というより、いつ呼ばれるかという緊張の方が強く眠気もなかったのが正直なところです。
そしてその時はきました。朝の4時頃です。
集中治療室にあわただしく速足で入る医師を見て、私は「あ、その時がついにきたか」と感じたのです。
すると間もなく看護師に中に入るように言われ、私と妻は簡素な防護服とマスクをして中に入りました。
そして医師から「厳しい状態です。声をかけてあげて下さい。」と言われたので、待合の椅子に座り最期の言葉は何にしようかとずっと考えていたのですが、妻が泣きながら「お父さん、お父さん」と声を掛けている姿を見て何も言えなくなってしまいました。
そうこうしていたらテレビの医療ドラマで観るのと同じで、モニターがツーっとフラットになったので逝ったのだと分かりました。
我々は延命処置は拒否していましたので医師は特段何もせず淡々と死亡宣告をされました。
妻は父の亡骸にしがみつき泣いていましたが、私は不思議と涙も出ませんでした。
そうして部屋を出て、母に連絡をしようと携帯電話片手に外に出ると白々と夜は明けていました。
その後、私は感傷に浸る暇もなく、葬儀屋さんに連絡したり、死亡診断書をいただいたり駆け付けた母や妹や妻の両親などとやり取りをしていました。
で、葬儀屋とは事前に打ち合わせを済ませておいたのもあるのですが、日ならびの関係でお通夜が死亡診断をされた当日になってしまったのです。
私は前日から一睡もしていなかったのですが、納棺の儀式もそこそこに悲しむ間もなく、各関係者に連絡したり、葬儀屋と打ち合わせをしたりしていました。
今、主流の家族葬という選択肢もあったのですが、父は生前ヤクザな生き方をしてきたせいなのか顔が大変に広く、交友関係や親せきも多いので一般葬にするしかなかったというのが事実です。
そうして通夜を終え怒涛の一日が終わったのです。
次の日は葬儀があるのでのんびりもしていられないのですが、私は布団に入るなり意識を失うように寝たのを覚えています。
そして葬儀を終え、父のお骨を後飾り段に置いた時に初めて一息つけたのです。
ここまで長々と書いてしまいましたが、ここまでが冒頭に書いた父が危篤となった日からの三日間の主な様子なのですが、ここで奇跡が起きていたのです。
それは、この三日間、私の体調は何の問題もなく過ごせたということです。
と言うのも、この頃の私は「心の病(身体表現性障害)」の症状の真っただ中にあったのです。
しかし一番厄介だった強いめまい(浮遊感)もピタリと止まり、動悸や背中の激痛なども何の症状にも襲われることなく三日間を過ごしていたのです。
まさに奇跡としか言いようがありません。
と言うか、症状なく過ごさせて下さったことに感謝しかありませんでした。
今思うと、人間は究極に追い込まれると火事場の馬鹿力で考えられない事が出来たり、不可能を可能にするのだと理解しているのです。
もしかしたらですが、ここに私が様々な症状と付き合うヒントがあるのだろうし、私の修行の在り方が見えるのかもしれませんね。
今は世の中の多くが、新型コロナウイルス「COVID-19」の事で占められていますが、人として失ってはいけない基本の部分はなくさないように日々を丁寧に過ごしていきたいと思っています。
本日も生かしていただけた事に感謝し一日を終えたいと思います。
皆さんにより善き明日がくることを願い、ご訪問に感謝し記事を終えます。
ありがとうございました。



スポンサーサイト