気付き
スピリチュアル
みなさんようこそ
昨日は娘の産んだ初孫を見に行ってきました。
赤ちゃんですから、当たり前なのですが小さな小さな身体で、本当に可愛く、愛おしく感じました。
それとともに「この子はどんな人生を歩もうと産まれてきたのだろう…」と感慨深くもなりました。
とにかく、おじいちゃんとしては何があろうと自分でこの場所に生まれようと、この世(現世)に生れて来たわけですから、最期までキッチリと頑張って生きて欲しいと心の底から願うばかりです。
で話変わりまして、NHKのブラタモリという番組を観ました。
内容は滋賀の比叡山延暦寺の修行の中身を簡単に説明するものでした。
私も少しは知ってはいたのですが、延暦寺は788年に最澄が開いたお寺ですが、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡の御山をぞいふ」と鎌倉時代の初期に活躍した延暦寺の僧侶、慈円(じえん)が歌に読んでいるように、「数ある山の中でも比叡山こそが日本一である」とも言われているそうです。
ここからは日蓮宗や曹洞宗の他、いくつもの宗派がうまれているように仏教においては大変に重要な場所であることは疑う余地はないでしょう。
この番組の中でもいくつかの修行の様子が紹介されていましたが、それを観た私は改めて自分の甘さに気付かされ衝撃を受けました。
私は約24年前に倒れ「心の病(身体表現性障害)」という病名を
付けられ、ブログの中でも何度も書いてきましたが、めまい(浮遊感)・背部痛・腰痛・微熱・倦怠感・疲労感・動悸・胸痛・意識の遠のき等々の様々な症状と付き合ってきました。
それらは重さや頻度は違うものの今でも続いています。
その症状の根本原因は私が深い因縁を背負っているからだと二人の霊能者から言われています。
それは私の過去世での業と父方の先祖代々の因縁の為であると指摘されているわけです。
それを機に私は徐々にスピリチュアル(霊的真理)を学ぶようになっていったわけですが、それは精神世界の話と申しましょうか、特別に肉体を使った苦行なりをしたことがあるかと言えばありません。
「心の病(身体表現性障害)」の症状を理由にして、毎日のお経や座禅、写経や秩父お遍路くらいで、肉体を使う業はしていないに等しいのが事実なのです。
では滝行や荒行をすれば良いのかと言えば、そうではありませんが、やはりどこかで病であるという逃げ道(甘え)をつくっているのではと思っているのです。
それこそが私の症状が24年以上も続き、因縁を断ち切れずに苦しんでいる元凶なのではないかと番組を観ながら衝撃を受けた事柄なのです。
私に病の根本原因を因縁にありと告げた師匠は、「病に苦しむこと事態が修行になっているのだから荒行をすることだけが修行ではない」と言っていました。
確かにその通りではあると思います。
しかし私に限れば「この辛さを誰かにわかって欲しい」という甘えでしかない気がしてならないのです。
この心である以上は「心の病(身体表現性障害)」の症状から抜け出す事はきっとないでしょう。
テレビ番組からですが、もっともっと内観し何が足りないのかを見つめ直す良いきっかけになりました。
やはり「気付き」とは、いつ、どこにころがっているか分からないものなのですね。


昨日は娘の産んだ初孫を見に行ってきました。
赤ちゃんですから、当たり前なのですが小さな小さな身体で、本当に可愛く、愛おしく感じました。
それとともに「この子はどんな人生を歩もうと産まれてきたのだろう…」と感慨深くもなりました。
とにかく、おじいちゃんとしては何があろうと自分でこの場所に生まれようと、この世(現世)に生れて来たわけですから、最期までキッチリと頑張って生きて欲しいと心の底から願うばかりです。
で話変わりまして、NHKのブラタモリという番組を観ました。
内容は滋賀の比叡山延暦寺の修行の中身を簡単に説明するものでした。
私も少しは知ってはいたのですが、延暦寺は788年に最澄が開いたお寺ですが、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡の御山をぞいふ」と鎌倉時代の初期に活躍した延暦寺の僧侶、慈円(じえん)が歌に読んでいるように、「数ある山の中でも比叡山こそが日本一である」とも言われているそうです。
ここからは日蓮宗や曹洞宗の他、いくつもの宗派がうまれているように仏教においては大変に重要な場所であることは疑う余地はないでしょう。
この番組の中でもいくつかの修行の様子が紹介されていましたが、それを観た私は改めて自分の甘さに気付かされ衝撃を受けました。
私は約24年前に倒れ「心の病(身体表現性障害)」という病名を
付けられ、ブログの中でも何度も書いてきましたが、めまい(浮遊感)・背部痛・腰痛・微熱・倦怠感・疲労感・動悸・胸痛・意識の遠のき等々の様々な症状と付き合ってきました。
それらは重さや頻度は違うものの今でも続いています。
その症状の根本原因は私が深い因縁を背負っているからだと二人の霊能者から言われています。
それは私の過去世での業と父方の先祖代々の因縁の為であると指摘されているわけです。
それを機に私は徐々にスピリチュアル(霊的真理)を学ぶようになっていったわけですが、それは精神世界の話と申しましょうか、特別に肉体を使った苦行なりをしたことがあるかと言えばありません。
「心の病(身体表現性障害)」の症状を理由にして、毎日のお経や座禅、写経や秩父お遍路くらいで、肉体を使う業はしていないに等しいのが事実なのです。
では滝行や荒行をすれば良いのかと言えば、そうではありませんが、やはりどこかで病であるという逃げ道(甘え)をつくっているのではと思っているのです。
それこそが私の症状が24年以上も続き、因縁を断ち切れずに苦しんでいる元凶なのではないかと番組を観ながら衝撃を受けた事柄なのです。
私に病の根本原因を因縁にありと告げた師匠は、「病に苦しむこと事態が修行になっているのだから荒行をすることだけが修行ではない」と言っていました。
確かにその通りではあると思います。
しかし私に限れば「この辛さを誰かにわかって欲しい」という甘えでしかない気がしてならないのです。
この心である以上は「心の病(身体表現性障害)」の症状から抜け出す事はきっとないでしょう。
テレビ番組からですが、もっともっと内観し何が足りないのかを見つめ直す良いきっかけになりました。
やはり「気付き」とは、いつ、どこにころがっているか分からないものなのですね。


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